自然だけじゃない、人情に魅せられた

 ブウウウォ。ハーレーダビッドソンの快音が響いた。タンクに描かれたオレンジ色の炎が陽差しを反射して光る。磨き上げられた愛車に乗っているのは、稲垣武利さんとさとみさん。
 二人は平成14年7月、東京から島根県桜江町にIターンした。きっかけとなったのは「しまね暮らし発見ツアー」。インターネットで知り、桜江町を舞台に開催された「神楽太鼓ツアー」に参加した。この体験で、二人は人生を大きく変えることになった。
 今は健康そうなさとみさんだが、東京にいるころは病気に苦しんだという。31歳のときに原因不明の難病を患い、歩くことも不自由に。何軒も病院を訪ねた挙げ句、緊急手術。手術は成功して歩けるようになった。しかし、雑踏や通勤ラッシュ、駅の長い階段など、都会の生活はさとみさんにとって苦痛が多かった。ゆくゆくは田舎暮らしをしよう。ツアーに参加したのは、夫婦でそう話し合った矢先のことであった。
 「地元の人たちのざっくばらんな人柄に引かれて」
 ツアー参加から4カ月後、二人は桜江町に引っ越していた。住まいとなる空き家は地区の人たちが、すぐに見つけてきてくれた。二人は大家さんの了解を得て、自分たちでリフォームに挑戦。汗だくで家を直す二人のところに、トマトやキュウリなど、地区の人たちからの差し入れが毎日届いた。
 「ダンボールに野菜がいっぱいになってね。初めてお米を買ったのは、こっちに来てから3カ月目だったかな」
 「うん。私の具合が悪くなると裏手に住む山下さんご夫妻がご飯を作って持って来てくれたり。こんなに安心して暮らせるとは思ってもいませんでした」
 以前は、ハエ1匹で大騒ぎをしていたさとみさん。土をいじったことも、クワを持ったこともなかった。それが今では庭の畑を耕し、野菜についた虫をとる。初めて植えたダイコンも豊作だった。
 「畑は、ほとんど山下さんに手伝ってもらったからな」
 と、武利さんが満面の笑顔で茶々をいれた。

 



住居は空き家を2カ月かけてリフォーム。床も壁もすべて自分たちで仕上げた。
しっくいのスペイン風塗り壁が洒落た雰囲気を演出している。夫婦の温もりが、そこかしこから伝わってくる。

 

夫婦で舞う石見神楽に幸せをかみしめる

 二人が暮らす桜江町山中地区では、秋祭りに石見神楽を奉納する。ツアーで体験した神楽囃子の不思議なリズムと派手な衣装は、二人には”新鮮な踊り“に映ったという。
 地区の人たちはそんな二人に、「神降(かみおろし)」の舞いを伝授した。石見神楽を奉納する前に、神に捧げる神聖な二人舞いである。神楽の舞いは女人禁制とされることが多い。だが地区の人たちのはからいで、夫婦で舞うことが許された。
 「それに100年前の貴重な衣装を何のためらいもなく、新参者の私たちに着せてくださったんですよ」
 初舞のとき、夫婦は地区の人たちの懐の深さを感じたという。
 桜江町に季節の風が吹き、また秋が巡ってくる。この土地の息子と娘になった二人が舞う「神降」を今年もまた、地区の人たちは温かく見守ることだろう。
 「東京では救急車の音に慣れて、またかと聞き流していました。今では救急車の音を聞くと、だれかしらと心配になるんですよ」
 そんな自分に戻れたことが嬉しいと、さとみさんは優しいまなざしになった。
 「過疎化や町の財政難といったマイナスはあります。でも、プラスだけの町なんてない。自分たちが、どこに価値を置くかです」
 自分で自分の心を耕している人は、顔つきまでも稟として美しい。
 本当の美しさは、心の美しさからしか出てこない。大事なのは「人間としての豊かさ」。武利さんとさとみさんの明るい顔が、それを教えてくれている。

「しまね暮らし発見ツアー」を実施しているのは、「いわみマインド」という団体。稲垣夫妻が暮らす桜江町は「いわみマインド」のメンバー、河部真弓さんの町でもあり、U・Iターンが盛んな地域です。
 「私たちは月1回、地域ごとにU・Iターンをした人たちが集まって、地元の美味しい特産物を味わいながら親交を深めるなど、交流会も活発に開催しています。いろいろな才能を持った人が島根県に集まって来ています。これからはその人たちの能力や技術を活かして、手作りの作品をインターネットで販売するなど、新しい事業も計画しています」と語る河部さん。
 こうした地域に密着した草の根活動が、島根にU・Iターンする人々を支えています。

取材協力:「いわみマインド」

「月刊しまね iwamiマガジン」ホームページ http://iwamiyoitoko.com

左/
太鼓と笛の音に合わせて夫妻で舞う「神降」。
厳粛で神秘的な舞いである。

右/
庭の畑の世話はさとみさんの楽しみとなった。
周辺には豊かな自然が広がる。


上/武利さんは、川本町の車両会社「月森ゴム」で整備士として働いている。下/「月森ゴム」社長の岩野さん(右)と武利さん(左)




【岩野賢社長から一言】
ツアーのとき、稲垣君の太鼓を打つ姿を一目見て、惚れてしまいました。誠実で熱心、彼の人間性があふれていたんですよ。新しい土地で暮らすことになるIターンには、しっかりとした考えが必要だと思います。稲垣君が地域にすぐ溶け込んだのは、意気込みがあったからでしょう。奥さんを気遣う姿もほほえましい。うちの会社を継いでほしいくらいの人材です。