小田顔写真 パン屋経営 小田豊章 浜田市在住 神戸からUターン
かけがえのない友情 パン作り

 

 

食パン

リズミカルに粉を振るい、やさしく生地を練る。作業台の上はふわりとした柔らかそうなパン生地で、たちまちいっぱいになった。毎朝4時から仕込みにかかり、朝6時に開店。「手づくりのパン・ボイゲル」には、焼きたての香ばしいパンがずらりと並ぶ。
 「パンづくりが面白くなってきたのは、ここ10年でしょうか」
 オーナーの小田豊章さんは柔和な笑顔でそう話す。この穏やかな横顔の陰に、波瀾万丈の半生が秘められているとは誰も思わないだろう。
 小田さんは浜田市生まれ。18歳で大阪の大手パン製造メーカーに就職。それからパンづくり一筋の道を歩んできた。500人もの作業員が働く大工場で、20年間パンを焼き続けた。
 そして38歳のとき、ついに神戸で念願のパン屋を開店。スーパーマーケットの一角に開いた「焼きたてパンの店」は人気を呼び、毎日600人近いお客さんがやって来たという。店の売上は伸び続けた。しかし、小田さんの顔は晴れなかった。
 「神戸のころは本当に忙しくて、自分が作りたいパンを追求することもできませんでした」
 胸中には、いつも小さな疑問がくすぶっていた。そんな日々の中で突然やって来た、あの日。平成7年に発生した阪神淡路大震災である。日本中を震撼させた大地震で、小田さんの店は跡形もなく崩れてしまった。神戸に店を持って13年目のことだった。
 「まるでホラー映画を見ているようでした」          
 30年以上もの年月をかけて築いてきた財産を、一瞬にして失った衝撃には計り知れないものがある。それでも、ともかく前を向いて生きるしかなかった。
 悪夢から2年後、小田さんは丹波篠山を再出発の地に選んだ。今度のパン屋は単独店。神戸の店のような繁盛はなかったが、これまでの人生、パンづくり、将来のこと…、様々なことを考える時間はあった。自然と心に余裕ができていた。
 「それまではパン屋をやめたいなと思うことが多かったんですよ。それが初めて、パン屋をやっていて良かったと思いました」
 しかし、暗雲が立ち込める。都市開発により店の立ち退き問題が持ち上がったのである。不景気も重なり、駅前ビルに出店する話が立ち消えるなど不運が続いた。
 そんなときだった、甥の一言をきっかけに人生を変えることになったのは。
 「おじさん。俺、パン屋をやりたいんだ」
 浜田市に住んでいる甥のその言葉を受けて平成14年、小田さんはふるさとにUターン。再々出発をかけて店舗を構えた。
 数々の試練を乗り越えて、40年振りに対面したふるさとは、18歳で後にしたときよりも数段深まって小田さんの目に映った。若いころには見えなかった風景、感じることのできなかった温もりが身に滲みる。
 「同級生たちが応援してくれるんですよ。この歳になって、友だちのありがたさをしみじみと感じています」


パン作り 工房では、朝早くから甥の弓弦(ゆずる)さんと一緒に仕込みが始まる。一番難しいのは生地づくり。冬は温水、夏は冷水を用いて生地を一定の温度に保つ。

それが嬉しくて
 海や山、豊かな自然も心地良い。友だち、お客さん、スタッフ、そして自然の癒し。島根に帰ってからは、感謝の気持ちがいつもあふれている。
心の平静はパンづくりにも深みを添えた。小田さんは、かねてから考えていた無添加のパンづくりを始めた。アトピーの子どもでも安心して食べられるパン、野菜のモロヘイヤを練り込んだパン、栄養満点の発芽玄米パンなど、数々のオリジナルパンを作って好評を得ている。また、食パンの種類だけでも8種類。神戸のパン屋でも、これだけの種類を揃えている店は少ないだろう。
 ボイゲルの会員カードを持つ顧客も1年間で900名を超えた。これは神戸、篠山の店よりも早いペースだという。60代という人生の節目を前にした小田さんにとって、島根で暮らすことを選んだことは、人生に大きな実りを与えているようだ。
 「歳をとって仕事を退いたら、帰ってくるつもりではいました。それが早まっただけ。こうやって浜田でパン屋ができるのも、震災のおかげですね」
 小田さんは神戸に自宅を再建しているが、このまま浜田で暮らすつもりだという。叔父は終の棲家として島根を選び、甥は未来の夢を島根にかける。
 人生の門出にも、人生の着地点にも、島根はその懐を大きく広げている。癒しの力と抱擁力、島根の豊かさは、そのまま人々の人生に彩りを与えてくれる。
 「ボイゲル」とはポルトガル語で「早起き鳥」の意味をもつ。“早くから起きて働け”と、自分を叱咤するために付けた名前だという。甥がパンづくりの腕を上げて店を継ぐまでは、「早起き鳥」に負けないように頑張るつもりと、小田さんは晴れやかな顔で話す。島根ならその夢も叶うことだろう。
 早朝、ボイゲルにはたくさんの人たちがやって来る。朝食のパンを買いに来たお母さん、出社途中に昼食用のパンを求める会社員、みんな焼きたての香りに顔をほころばせて、今日はどれにしようかと嬉しそうにパンを選んでいる。
 小田さんにとって、これまでになかった至福のひと時である。
ボイゲル外観
●浜田市周布町口241-8
TEL.0855-27-3373
http://boigel.ehamada.com/
営業時間/6時〜19時
赤レンガを基調とした欧風な建物は、カジュアルな中にも重厚な雰囲気。国道沿いにあって一際目を引く。

 


菓子パン 店内
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   |鎌瀬 薫ジェフリー・アボット小藤 由貴田邊 健一
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